横浜地方裁判所 昭和37年(ワ)791号 判決 1963年10月18日
原告 日本興業株式会社
被告 笹川昭 外一名
主文
原告の請求はいずれもこれを棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実
原告訴訟代理人は「被告等は原告に対し別紙目録<省略>記載の家屋を明渡せ」との判決並びに仮執行の宣言を求め、請求の原因として
一、原告は被告昭に対し、昭和三六年八月一日より原告所有の別紙目録記載の家屋(以下本件家屋という)を賃料一ケ月金一八、〇〇〇円、期間五年の約定で賃貸し引渡したが、原告と被告昭はその後右賃貸借契約を昭和三七年八月一一日限りで合意解除(以下本件合意解除という)した。よつて被告昭は原告に対し本件家屋を明渡す義務があろのにかかわらず本件家屋を明渡さない。
二、被告京子は被告昭の妻であるが、同女は前記解除日以後は原告に対抗し得べき正当な権限がないのにかかわらず本件家屋を占拠している。
よつて被告等に対し本件家屋の明渡を求める為本訴請求に及ぶ次第であると述べ、被告等の主張事実を否認し、
証拠として、甲第一、第二号証、第三号証の一、二を提出し、証人鈴木昌男の証言及び原告代表者福本寛一郎本人尋問の結果を援用し、乙第一号証の一乃至三、同第二号証、同第四号証乃至第七号証、同第一〇号証、同第一一号証の二、同第一二、第一三号証の各一、二、同第一五号証の一乃至三、同第一六号証の三、同第一七号証の一乃至三の成立はいずれも認め、その余の乙号各証の成立はいずれも不知と述べた。
被告笹川昭は適式の呼出を受けたのにかかわらず昭和三七年一〇月二五日午前一〇時の本件最初の口頭弁論期日に出頭しなかつたが、答弁書を提出したので当裁判所は右答弁書にもとづいて陳述したものとみなした。しかして右答弁書によれば「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする」との判決を求め、答弁として
一、原告主張の一の事実中原告がその主張の日より被告昭に対し原告所有の本件家屋をその主張の約定で賃貸し引渡したこと、原告と被告昭がその後右賃貸借契約を原告主張の日限りで合意解除したことは認めるがその余は否認する。同二の事実は認める。
二、被告昭は、昭和三七年八月一二日本件家屋より退去してこれを明渡したというのである。
なお被告昭は甲号各証について認否をしていない。
被告京子訴訟代理人は主文同旨の判決を求め、答弁として
一、原告主張の一の事実は否認する。同二の事実中被告京子が同昭の妻であること並びに被告京子が本件家屋を占有していることは認めるがその余は否認する。
二、本件家屋は被告両名が共同して原告から賃借したものであるから、原告と被告昭との間になされたと称する本件合意解除の効力いかんにかかわらず、被告京子は本件家屋について賃借権を有する。
三、仮に右主張が認められないとしても本件合意解除は真実解除の意思がないのにこれをなしたものであるから通謀虚偽表示というべく無効である。
即ち被告昭は妻京子(当時内縁関係)と共同して寿司屋(笹川寿司)を経営する為昭和三六年八月より本件家屋を賃借したが、被告昭が京子の妹小池節子とひそかに情交関係を結んでいたことから夫婦関係に溝が出来表面は一応平静を保つていたが、昭和三七年五月頃ささいなことから激しい夫婦喧嘩がおきた。当時被告昭の同京子に対する愛情は既に冷却しており、これを機会に被告昭は同京子を離別することを決意し、同年六月一四日横浜家庭裁判所に対し離婚調停の申立をなすかたわら離婚調停成立の暁において被告京子が速やかに本件家屋より立退くことを確保するには同家屋に関する原告と被告昭間の賃貸借契約を解除したことにするのが必要であると思料し、その結果無謀にも原告と通謀のうえ合意解除を偽装したものである。
四、仮りに以上の主張が認められないとしても本件合意解除は以下の理由により被告京子に対しその効力を生じない。即ち家屋賃貸借契約の成立により賃借名義人と共に賃借名義人の妻やその他の同居の家族も当然に賃借家屋に居住する利益を取得し、右居住の利益は賃貸人と賃借名義人の恣意により不当に剥奪さるべきでないことは家屋賃貸借契約の本質上明らかであるから賃貸人と賃借名義人との間になされる合意解除の効力も右限度に於て制約を受くべきものである。よつて原告主張の本件合意解除は被告京子の本件家屋に対する居住の利益に影響のない一種特別の契約(賃借名義人たる昭の居住の利益は放棄するが被告京子の居住の利益に関する限りに於ては被告昭の賃借権はそのままとする)と解すべきであり、右合意解除を前提として被告京子に対し本件家屋の明渡を求めることは許されない。
五、仮に右の主張が認められないとしても、本件合意解除は被告昭が被告京子を本件家屋より追い出して離婚する為なされたもので、原告も右の事情を熟知しているから原告の本訴は公序良俗に反し許されないと述べた。
証拠<省略>
理由
一、原告の被告昭に対する本訴請求について判断する。
原告は被告昭に対し昭和三六年八月一日より本件家屋を原告主張の約定で貸与したこと、原告と被告昭が昭和三七年八月一一日限りで右賃貸借契約を合意解除したことは原告と被告昭間に争いはない。
被告昭は昭和三七年八月一二日本件家屋より退去してこれを明渡したと主張するので按ずるに証人小池節子、同佐々木秀治の各証言並びに被告等各本人尋問の結果によれば被告昭は遅くとも同年七月一九日横浜家庭裁判所において京子との離婚調停第一回期日が開かれた頃から本件家屋にほとんど寄りつかず、横浜市南区上大岡町の訴外佐々木秀治方にて寝起きしていたこと、同年一一月初旬同被告は訴外小池節子と共に本件家屋を訪れ甲府に送付する目的をもつて同被告の荷物をまとめたこと、同年一二月頃それ迄佐々木秀治方で働いていた同被告は横浜から甲府へその居を移し、以後現在に至る迄前記小池節子と共に甲府市において寿司屋を営んでいることが認められ、以上の事実を綜合すると被告昭は既に本件家屋より退去してこれを明渡したものと認めるを相当とする。そうすると同被告に対する原告の本訴請求は失当としてこれを棄却すべきである。
二、原告の被告京子に対する本訴請求について判断する。
成立に争いのない甲第一号証(但し斜線で消した部分、欄外の「解除昭和三十七年八月十一日」の部分及びその下部捺印部分を除く)、被告昭本人尋問の結果により真正に成立したと認める甲第二号証、証人鈴木昌男の証言、原告代表者福本寛一郎、被告昭各本人の尋問の結果によれば、原告は被告昭に対し昭和三六年八月一日より本件家屋を原告主張の約定で賃貸したこと、原告と被告昭は昭和三七年七月五日右賃貸借契約を同年八月一一日限りで合意解除したことが認められ右認定の妨げとなる証拠はない。しかして被告京子が同昭の妻であること及び被告京子が本件家屋を占有していることは原告と被告京子間に争いはない。
被告京子は本件家屋は被告等両名が共同して原告より賃借したものであると主張するが、被告の提出援用にかかる全証拠によるもこれを確認するに由なく却つて前記甲第一号証、成立に争いのない乙第五、第六号証、前顕証人鈴木昌男、同佐々木秀治の各証言、原告代表者福本寛一郎本人尋問の結果によれば、前記賃貸借契約の賃借人は被告昭であつて、被告京子は右賃貸借契約の連帯保証人であることが認められるので、被告京子の右主張は採用することが出来ない。
次に被告京子は本件合意解除は通謀虚偽表示であると抗弁するので判断するに、同被告の提出援用にかかる全証拠によるも右抗弁事実を認めるに由なく、却つて前記甲第二号証、成立に争いのない乙第一一、第一二号証の各一、二、前顕証人鈴木昌男の証言、原告代表者福本寛一郎本人尋問の結果、右本人尋問の結果により真正に成立したと認められる甲第三号証の一、二、及び被告昭本人尋問の結果を総合すると原告は昭和三七年八月一一日限りで本件家屋の賃貸借契約が合意解除せられると、翌一二日前記佐々木秀治方において被告昭に対し同被告より預かつていた敷金三〇〇、〇〇〇円及び同年八月分の既払賃料の中日割計算にて一二日以降の分一一、四〇〇円を同被告に返済し、同被告はこれを受領しこれと引換えに原告に対し右金員の受領証二通(甲第三号証の一、二)を手渡したこと、更に原告は同場所において本件家屋を訴外佐々木秀治に対し敷金三〇〇、〇〇〇円期間一年、賃料一ケ月金二〇、〇〇〇円で貸与する旨の契約をしたことが認められ、以上の事実を総合すれば、原告と被告昭間の本件合意解除は真実その意思に基いてなされたものであると認めるを相当とする。もつとも前顕甲第二号証、成立に争いのない乙第一三号証の二、前顕証人小池節子の証言、原告代表者福本寛一郎及び被告等各本人尋問の結果によれば原告と被告昭間においては昭和三七年七月五日本件家屋の賃貸借契約を合意解除する話合が成立していたにも拘らず被告昭は原告に対し八月分の賃料全額を支払つたこと、被告昭は本件合意解除について事前に被告京子に連絡しなかつたばかりでなく、原告も特に被告京子より、被告昭から何か本件家屋の賃貸借に関し話があつたら知らせてくれるよう依頼されていたにもかかわらず殊更に本件合意解除のなされたことを秘し被告京子に対し何らの連絡もしなかつたこと、被告昭は本件合意解除後である同年八月一四日本件家屋内の店舖造作、営業用什器、家財一式につき訴外富士火災保険株式会社と火災保険契約を締結したこと等がいずれも認められるが、右の各事実を綜合してみても前記認定を覆えすに足るものではなくこの点についての被告京子の主張も認めることができない。
そこで本件合意解除の効力は被告京子に及ばないとの同被告の抗弁について検討する。
家屋賃貸借契約においては、賃貸人は特段の事情がない限り賃借人の世帯に属する妻が賃借人の夫と共に当該家屋に居住することを予想し、かつ認容しているものというべきであるから、妻は夫と共に当該家屋に居住する権利を有し、この権利を賃貸人に対し主張し得るものと言うべきである。しかして妻の有するこの権利は夫の有する賃借権にその根拠を有するものであるから夫の賃借権に従属し夫の賃借権の消滅に伴つて消滅するものと言うべきである。しかしこの法理は夫婦関係が正常な状態にある場合に妥当するもので夫婦間に大きな溝が出来、当該家屋における同居生活が不能となり夫が当該家屋から立退いて妻と世帯を別にしなければならない事態が生じた場合には妻の有する居住の権利は夫の賃借権に従属する関係を脱却しそれ自体独立の権利として保護せらるべき地位を取得するに至つたものと言うべく、夫は賃貸人との合意によつても妻の意思に反してこれを消滅せしめることが出来ないと解すべきである。(なお、昭和三八年二月二一日最高裁判所第一小法廷判決、最高裁判所判例集第一七巻第一号二一九頁参照)右の見解を前提として本件を考察するに、前顕証人佐々木秀治の証言、原告代表者福本寛一郎並びに被告等各本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば被告昭は妻である被告京子と共同して寿司屋営業を営み、かつ二人の住居とする目的をもつて原告より本件家屋を賃借したものであるところ、その後昭と訴外小池節子との不倫関係を原因として被告等夫婦間に溝が生じ、事ある毎に夫婦喧嘩が起り本件合意解除のなされた昭和三七年八月一一日当時には被告等の夫婦関係は復元の見込のないほど破綻し、本件家屋における同居生活は不能となり、被告昭は本件家屋に寄りつかず訴外佐々木秀治方において寝起きしていたこと、被告京子としては被告昭との同居生活が不能となつた以上本件家屋において寿司屋営業を営み生活費を捻出する以外に現在これといつた生計の道なく、従つて今後も引続き本件家屋に居住する必要があることが認められるから、被告京子の有する本件家屋居住の権利は被告昭の賃借権から独立した権利として保護せらるべき地位を取得するに至つたものというべく、従つて被告昭が賃貸人原告との合意によつて本件家屋の賃貸借を解除し、自己の賃借権を消滅せしめても、被告京子の有する本件家屋居住の権利には何らの消長を及ぼさないものと解すべきである。
そうすると被告京子は原告に対し本件家屋に居住する権利を有することになるから、同被告は原告に対抗し得べき正当な権限に基いて本件家屋を占有しているものと言うべく、従つて原告の被告京子に対する本訴請求はその余の点について判断するまでもなく失当としてこれを棄却すべきである。
よつて訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用し主文の通り判決する。
(裁判官 久利馨)